はじめて入る酒場では(恵比寿/たつや)

酒場のかたすみで

はじめて訪れる酒場に足を踏み入れるとき、私の心はいつも穏やかではない。少しばかりの緊張と、蔑ろに扱われたらどうしようという不安が、どうしても付きまとってくるのだ。

実際のところ、これまで幾度となく経験しているこの感情には、実体験に裏付けられる根拠はひとつもない。むしろ、はじめて訪れる酒場で嫌な思いをした記憶などひとつもないのだ。どの酒場でも「いらっしゃい」「どうぞー」と拍子抜けするほどに私を快く迎え入れてくれるし、良いお酒とおつまみにすっかり気を良くして、ついつい呑みすぎてしまうこともしばしば。この緊張と不安はいったい何なのだろう。自分でも不思議に思うくらい、私の初酒場恐怖症は深刻なのだ。


とある休日の昼前、私は恵比寿の駅前を歩いていた。都内でも一目置かれるおしゃれな街として知られる恵比寿、私のようなただの酒呑みには明らかに場違いのように思える。私の目的はもちろんおしゃれスポットなどではなく、知る人ぞ知る黒ホッピー発祥の名酒場「たつや」への初訪問だ。真っ赤な看板が眩しい「たつや」を見つけると、また例によって緊張と不安が襲ってくる。

店の前を通り過ぎるフリをして、ガラス戸の向こうに広がる店内の様子を伺う。どうやらカウンター席には、私ひとりが座るスペースくらいはありそうだ。どうするか、今なら近所の入りやすい中華チェーンへ尻尾を巻いて逃げ込んでもいい。恵比寿駅へ戻って渋谷や新宿の馴染みのある店に落ち着いてもいい。いやいや、せっかくここまで来たのだから…。

もう我が身がどうなろうと構わない、何かが違うと感じたら踵を返して店を出ればいい、文字通り決死の覚悟でガラス戸を開ける。「こちらどうぞー」と予想どおり、そしていつもどおり、私は呆気なくカウンター席を確保することに成功した。今日1日分の気力と体力を消耗したような気分。同時に、いつまでこの生産性のまるでない感情の揺れと付き合わなければならないのかと自己嫌悪にも陥るのだった。



「たつや」の居心地の良さは群を抜いている。赤星によるひと口目の至福にはじまり、身体に染み入るような深い味わいのもつ煮、絶妙のタレに思わずニヤけてしまう焼とり。そしてこの店が発祥の黒ホッピー、これは店員の方が作ってくれる生タイプなので、手元でソトとナカを混ぜる必要がない。オリジンであるこの店で呑むからこその味わいがあるような気がする。なかなかに年季の入った、でも清潔感を感じる店内は昼間でも少し薄暗い。この薄暗さが心地よく、お酒とおつまみに集中し、自らの思考や妄想を捗らせる。



静かすぎず、うるさすぎず、程よい喧騒に包まれた店内の空気が一変したのは、私が黒ホッピーを半分くらいまで呑み進めたころだった。私の左隣に座るふたり組男性のひとりに、携帯電話の着信があったようだ。彼はあろうことかその場で話はじめる。「え?いま?たつやで呑んでるよ」「たつやだよ、たつや」あまり大きな声ではなかったので、まあいいか、と気にしないようにしていたのだが、やはりその声が私の耳へ優先的に届いてしまう。「今日?もちろん行くよ、大丈夫」「え、大丈夫だって、ちゃんと行くから」どうやら電話の相手は彼の家族のようで(奥さんかな)、この後どこかへ出かける用事があるようだ。それなのに昼時に一杯楽しんでいるということらしい。自分だったら用事の前にお酒を呑むことはしないだろうな、いろいろ面倒くさくなっちゃうからな、などと考える。

お気楽な人だな、なんてその人を評すると同時に、彼のことが何となく羨ましくなる。きっと彼の住まいはここからそう遠くなく、ちょっと時間があったから近所の呑み友達を誘ってふらっと呑みにきた、ということなのだろう。出かける用事があろうが、奥さんに「あんたまた呑んでんの」と叱られようが、ちょっと時間があったから呑みにきただけ。これこそが酒呑みと酒場のちょうど良い距離感なのではないだろうかと思った。私のように電車に揺られてはるばるやって来ては、決死の覚悟で暖簾をくぐって「ふう」なんてやっているのはむしろ不健全である。不健康なんである。

美術館へ行くのではない。講演を聞きに行くのでもない。私がめざしたのは酒場なのだ。自由で気楽で、地位も肩書きもいらない、心豊かで楽しい酒場なのだ。だから彼のように、何の気構えもなく普段着のまま訪れるのが本来のあるべき姿なのだ。「たつや」に来て、何だか教えられてしまったなと思う。


とは言え、今回の一件があったからといって私の初酒場恐怖症がすぐに完治するとは思えない。まあ何でもいいじゃないか。初訪問のどきどきをクリアしてから呑む瓶ビールの美味しさだって確実に存在している。刺激の少ない毎日を送っているのだから、たまの休みにちょっとした冒険気分を味わってみるのも悪くはない。黒ホッピーの酔いに任せて、そんなことをだらだらと考えながら「たつや」を後にした。