昭和生まれの人間にとって、令和の世の中に息苦しさを感じる部分は、多かれ少なかれあるのではないかと思っている。当時はスマホの画面を見ながら街を歩く人などいなかったし、デジタルデバイスを介してコミュニケーションをはかることもなかった。視線や肉声、肉筆といった近い距離でのコミュニケーションは、人と人とのつながり、心の結びつきを、今よりも容易に叶えていたのではないかと推測できる。今より不便なことは多かったし、昔は良かったなどと年寄の小言のようなことを言うつもりもないけれど、今よりも心の温かさみたいなものは確実に存在していたなと思ってしまうのである。
さて、そんな今はなき、懐かしの昭和の空気を感じられる酒場を堪能してきたのでご紹介。上野の喧騒を少し抜けたあたり、御徒町駅にほど近い「全国銘酒 たる松本店」。お酒やおつまみ、お店の雰囲気や店員のおねえさま方の所作も含めて、なんとも心温まる酒場体験であった。
大きな酒樽が目を引く昭和の酒場「全国銘酒 たる松本店」
御徒町の「全国銘酒 たる松本店」は、戦後復興期の昭和20年代に創業した老舗の大衆酒場。長い年月を経ても変わらず営業を続け、現在も地域の人々や近隣の勤め人など多くの人々に利用されている。店内の象徴はカウンターの向こうにずらりと並ぶ大きな酒樽であり、これは創業当時から「たる松」の名を冠する所以となっている。もちろん、この酒樽から注がれる日本酒はこの店の看板であり、全国各地の銘柄を味わうことができる。常時数種類の定番酒が用意されるほか、季節ごとに入れ替わる限定銘柄もあり、日本酒を主軸とした品揃えの厚さが特徴で、料理はいずれも酒を引き立てる内容で構成されている。席はカウンターとテーブルが用意され、ひとり客から団体まで対応可能。価格は庶民的で、仕事帰りに立ち寄れる日常の酒場として長年親しまれてきた。再開発の進む御徒町にあって、昭和の風情を今日に伝える数少ない一軒である。
酒樽が鎮座する店内、電車の音が心地よい和の空間へ
とある休日の昼前、特に用もないのにまた上野にやってきてしまった私は、相も変わらず昼呑みできる酒場を探していた。しかし「大統領本店」「昇龍」「文楽」「浜ちゃん」「大統領支店」「ほていちゃん4号店」「たきおか」「五の五」などが立ち並ぶ酒都・上野のメインストリートは人でごった返し、どの店も満席の大盛況。私ひとりくらいであれば、なんとか入り込めそうな気もしないではないが、今日はあまり窮屈な思いをせずゆったり呑める場所を探したい。ということで酒都からは少し離れ、御徒町駅方面へと足を向けた。
そして目に飛び込んできたのが赤地に墨文字の堂々たる看板。そうだ、私にはたる松があるじゃないか。JR山手線などがひっきりなしに通過する高架下、夏の強い日差しを手で遮りながら店内を覗き見ると、人影はまばらのようだ。今の私にここ以上の酒場はない。そんな思いで暖簾をくぐった。
まず目線が向かうのは、正面に鎮座するこの店の象徴とも言える酒樽。落ち着いた和の雰囲気が漂う店内には先客がふたり。そして少し退屈していそうな店員のおねえさま方。夏の日差しに反して涼しい空気が流れる店内には、ときおり通過する電車の車輪の音が響く。電車の音が心地よく感じるなんて、私にとってはなかなかない経験だ。「こちらへどうぞ」「荷物はここに置いてくださいね」おねえさま方のおもてなしをさっそく受けながら、今日の宴に向けて思いを馳せる。
日本酒を存分に楽しむための空間とラインナップ
私は幸運にも、樽酒が鎮座するほぼ正面のカウンター席に座ることができた。白木のカウンターは手触りもなめらかで、これから出てくるであろうお酒やおつまみ、酒器や器を引き立たせるに違いない。
さっそく手元のお品書きを眺める。やはり日本酒のラインナップは豊富で、たる酒や純米吟醸酒、吟醸酒、純米酒などにカテゴリー分けされ、さらに日本酒度まで記されているためとても参考になる。価格横に記されているV、K、Z、Sに関しては不明だが、同じアルファベットのものが同価格なので会計上必要な記号なのだろうと勝手に解釈。兎にも角にもしっかりと吟味して日本酒を楽しもう。
また他のメニューについては都合上撮影していないが、刺身、焼き物、串、揚げ物、一品、とりあえず(スピードメニュー)、サラダなどがあり、派手さはないが日本酒にピタリと合うものばかりのように感じた。
日本酒以外のドリンクは、ビール、ハイボール、サワー、ホッピー、梅酒、焼酎、ソフトドリックなど。種類は多くないが、どこか潔さのようなものを感じるメニューとなっていた。
細部にまで宿るこだわりと心遣いを味わう
大好きな赤星もあったのだけれど、この日の暑さでゴクゴクやりたい気分。躊躇なく生ビールで喉を潤す。うまい。生ビールはどこで呑んでも大抵美味しいのだが、たる松はちょっと上を行っているように感じた。
呑み進めるうちに見えてきたエンジェルリング。ビールサーバーやジョッキがしっかりと清潔に管理されていることの証左だ。きっとこういうところなんですよ、長く続いている酒場の小さいけど大切なこだわり。
とりあえずのおつまみとして、これほど優れた一品はないのではないかと思っている白菜漬。なんてことのない予想どおりの味わいだけど、これがいいんだよね。丁寧に漬けられていることが感じられるのは、お店の歴史や雰囲気によるものだろうか。
しばらくしてやってきたのは、さつま揚。添えられた生姜にすこし醤油をたらしていただく。熱々でほくほく、魚の旨味がしっかりと伝わってきて小さく感動するレベルで美味しい。普通の酒場であれば業務用のさつま揚げを温めて提供することが多いはずだけど、これはお店で手作りしてるんじゃないか、と思わせる一品。今度行ったら恐る恐るおねえさまに聞いてみようかしら。
ビールとおつまみをひととおり楽しんだところで、お待ちかねの日本酒タイムへ。樽酒の高清水がやってきた。菊正宗の枡とおまけの塩もついている。樽酒の香り高さに枡の香りもプラスされ、もう一口ひとくちが至福。
樽酒や常温の酒に合うとされる塩は、酒の甘みや旨味を引き立たせるばかりでなく、口直しや肴の代わりにもなる。塩だけで呑めるなんて酒呑みの最上位なのではないだろうか。いつか「つまみは塩で十分」などと、うそぶいてみたいものだ。
日本酒が供された時点でおねえさまから「お冷はいりますか」と聞かれる。日本酒を呑むときにはできるだけ水も飲むようにしたいのでお願いした。すると、写真には収めていなかったが、ほどなくビールジョッキ大のグラスにたっぷりと入ったお水がやってきた。こういう心遣いをいただくと、ふいに胸がときめいてしまうのだ。
日本酒に合わせるべくオーダーしたカンパチの刺身。盛り付けの美しさにまず感動。この日は(たしか)日曜日で、豊洲市場は閉まっているはずだからお刺身にそこまで期待できないかな、とは思っていた。しかしこのカンパチはしっかりと脂が乗っていて美味しい。樽酒の高清水と交互に味わい、この上ない酒宴とすることができた。
歴史だけではない、店と客との信頼関係の上に成り立つ昭和らしさ
私が帰り支度に向けて、残っていたおつまみを平らげお酒を呑み干そうとするタイミングで、おねえさま方のひとりが声をかけてきた。「あらもう帰っちゃうの?寂しいわ」営業トークであることは百も承知なのだが、このように言ってもらえて喜ばない酒呑みもいないのではないだろうか。「いやあ、すみません」などと答えながら、おねえさまにとって自分が嫌な客とならなかったであろうことに嬉しく思ったりもした。
思えば常連と思しき先客のおとうさまとも「〇〇いる?」「じゃあもらおうかな」なんてとても気さくな会話が聞こえてきた。長く続いている酒場があって、長く通う客がいるからこそ成立する親密な言葉たち。昭和らしさとは、店の歴史や建物の古さばかりでなく、店と客との築き上げられた信頼関係にもあるのかもしれない。この居心地の良さに、私はまた近いうちに足を運んでしまうことだろう。
店名/全国銘酒 たる松 本店
住所/東京都台東区上野6-4-13
電話/03-3834-1363
営業時間/火〜日11:30 – 14:00 16:00 – 23:00
定休日/月
※本記事は筆者訪問日(2025年8月)時点の情報をもとに作成しています。
※営業時間やメニュー等の内容に変更が生じる可能性があります。
※飲酒は20歳になってから。お酒は楽しく適量で。