最後の晩餐をめぐる考察

ぼんやり想う

相手の食の好みをストレートに聞き出すことができて、なおかつ会話も盛り上がるため、私がけっこう気に入っている質問がある。それは「明日世界が終わるとしたら、最後に何を食べたいか?」というものだ。

かつて私がこの質問を投げかけた人々も、それぞれに独自の答えを返してくれた。ある人は王道とも言える寿司。またある人は某有名店のラーメン。なるほどね。

もっとも印象的な答えを返してくれた人は「いなり寿司とツナ缶」と言った。ああ面白いなぁ、いなり寿司とツナ缶だなんて!素朴で質素、それだけにこのチョイスに並々ならない強い想いとこだわりを感じてしまう。聞きそびれたけど、きっと子供の頃の出来事とかが影響しているんだろうなぁ、なんて考えたり。ちなみにツナ缶には醤油やマヨネーズなどの調味料を使用せず、そのまま食べるのが吉なんだとか。これもまた面白い。

ところで。私にとっての最後の晩餐はといえば、これはもうとうの昔に答えは出ていて、それは「卵かけご飯」なのである。これを選んだことに一切の迷いも後悔もない。

私は今でも、週に2~3回は食べるほどの卵かけご飯好き。この食生活を40年以上続けてきたのだから、私の身体はある程度の割合で、卵かけご飯によって作られているといっても過言ではない。

卵かけご飯にはさまざまなアレンジが存在するようで、鰹節や白ネギ、納豆を乗せるといった比較的馴染みやすいものもあれば、混ぜた卵かけご飯をフライパンで焼く、チーズを乗せてオーブンで焼くといった、もはや別の料理なのではないかと思えるものまでさまざまだ。でも私は、ごくごくシンプルなものがいい。炊きたてのご飯に新鮮な卵、古くない醤油さえあれば、私はいつでも幸せな気分になることができる。

幼い頃、なぜか私の家の庭には鶏小屋があり、小さなチャボを2羽飼っていた。そのチャボが毎朝小さな卵を生むので、それを使った小さな卵かけご飯を、母がよく作ってくれたものだ。その頃の記憶はおぼろげながら、その小さな卵かけご飯の味と、家族が囲む食卓の風景が、私の原点と言えるような気がする。

思えば、親元を離れて初めて一人暮らしをはじめたとき、一番最初に自炊したものといえば、友人から譲り受けたビンテージな炊飯器で炊いた白米での卵かけご飯だった。その状況にすこし興奮してもいたのだろう、いつもの茶碗ではなく、ラーメンどんぶりに米を盛り、卵をふたつ割り入れた特大の卵かけご飯に。これを無我夢中でかきこんだ、青っぽい思い出が蘇る。

つらつらと思いのままに書き散らかしたが、私にとっての最後の晩餐と、それにまつわる思いとは、このようなものになる。死ぬ前にコレを食うんだ、と決めてみると、そのメニューは自分にとって特別なものになる。それだけで、死ぬことがすこし怖くなくなったりそうでもなかったり。