何度目かの、変わりゆく新宿西口にて(新宿西口/ぼるが)

酒場のかたすみで

新宿駅西口に立つと、いまこの街が大きな転換点にあることが分かる。再開発計画が進み、駅前の風景はこれから数年をかけて大きく姿を変えようとしている。老朽化したビル群の建て替えや駅周辺の再整備が進められ、2030年前後にかけて新しい都市空間が形成される予定という。長年見慣れてきた小田急百貨店が跡形もなく消え去り、西口から東口のビル群が見えるようになったことには大きな衝撃を受けたものだ。西口からアルタが見えるんだ、見慣れないなあ、などと言っているうちに、そのアルタビルもなくなってしまったのだが。 このように長く親しまれてきた建物や通りの景色が姿を消していくことに、寂しさを覚える人も少なくないだろう。


しかし、新宿西口の歴史を振り返れば、この街が大きく姿を変えるのは今回が初めてではないことがわかる。かつてこの一帯には、現在の高層ビル街からは想像もつかないほど広大な浄水場が広がっていた。戦後になるとその跡地を中心に都市整備が進み、やがて超高層ビルが立ち並ぶ日本有数のビジネス街へと変貌していく。一方で駅周辺には、酒場や小料理屋、バーなどが密集し、夜ごと人々が集う独特の飲食文化も育まれてきた。

その西口の片隅に、長く暖簾を掲げ続けてきた居酒屋「ぼるが」がある。決して派手な装いではないが、この店には作家や画家、演劇人など多くの文化人が足を運んだ。新宿という街が持つ自由で混沌とした創造の空気が、酒場という場に凝縮されたような場所でもある。

街は変わる。しかし街の記憶は、人と場所のなかに残り続けるのだ。

巨大な浄水場から、巨大な未来都市へ。


現在の新宿駅西口一帯は、高層ビルが林立する日本有数のビジネス街として知られている。しかしこの景観が形づくられたのは比較的最近のことであり、この地域はもともとまったく異なる土地利用がなされていたという。

新宿西口の歴史を語るうえで欠かせないのが、明治期に建設された淀橋浄水場である。1898年(明治31年)、東京の人口増加に対応するため、現在の西新宿一帯に大規模な浄水施設が整備された。浄水場の敷地は約30万平方メートル以上に及び、現在の新宿駅西口から都庁周辺、さらには新宿中央公園付近、北は青梅街道、南は甲州街道にまで広がる広大な施設であったという。当時の新宿はまだ郊外に近い地域であったため、こうした巨大インフラを置くための土地が確保できたということのようだ。


その後、1923年(大正12年)の関東大震災を契機に東京の都市構造は大きく変化し、郊外であった新宿も急速に都市化していく。しかし西口側は浄水場の存在によって開発が抑えられ、駅の東側とは対照的に長らく広大な公共施設の敷地として残り続けた。現在に続く繁華街である歌舞伎町や新宿三丁目などが東側で発展したのに対し、西口は都市の裏側のような位置づけであった。

転機となったのは戦後のこと。高度経済成長期に入ると東京の都市機能はさらに拡大し、都心部の業務機能を分散させる必要が生じた。1965年(昭和40年)、淀橋浄水場は現在の東京都東村山市へ移転し、その跡地を利用した大規模な都市再開発が始まる。こうして誕生したのが西新宿の超高層ビル街である。

1960年代末から1970年代にかけて、京王プラザホテルや新宿住友ビル、新宿三井ビルなど、日本でも先駆的な超高層建築が次々に建設された。当時の日本ではまだ高層建築は珍しく、新宿西口の摩天楼は「未来都市」の象徴として語られることも多かった。さらに1991年(平成3年)には東京都庁が丸の内から西新宿へと移転し、西口エリアは東京を代表する行政・業務拠点としての性格を強めていく。


一方で、新宿西口の都市構造にはもうひとつの特徴がある。それは巨大な交通結節点としての性格である。新宿駅は世界でも有数の乗降客数を誇る駅であり、JR各線に加え私鉄や地下鉄、さらには長距離バスターミナルなど多様な交通網が集中している。こうした交通の集積が、駅周辺に無数の飲食店や小規模な酒場を生み出す土壌となった。

つまり新宿西口とは、巨大都市インフラの跡地から生まれた計画的な超高層ビル街であると同時に、膨大な人の流れを背景に独自の都市文化が育まれる場所でもある。整然としたビル群と、駅周辺の雑多な飲食街。このふたつの顔を併せ持つことが、新宿西口という街の大きな特徴と言えるのである。

東口とは一線を画す、西口独自の飲食文化


新宿という街は、しばしば東口の歓楽街によって語られる。歌舞伎町や新宿三丁目、ゴールデン街といった場所は、日本有数の夜の街として知られている。しかし、新宿西口の飲食文化はそれらとは異なる性格を持って発展してきた。西口の酒場文化は、歓楽街というよりも「都市で働く人々の日常の酒場」として形成されてきたのである。

その背景には、西口エリアの都市機能がある。先述のように1960年代以降、西新宿には超高層ビルが立ち並び、日本を代表するビジネス街が誕生した。金融機関や建設会社、情報通信企業など多くの企業がこの地域にオフィスを構えたことで、日中には膨大な数の会社員が行き交うこととなる。こうした人々の仕事終わりの居場所として、西口周辺には数多くの居酒屋や飲食店が集まっていった。

駅の近く、ヨドバシカメラを象徴とするエリアには、雑居ビルなどに小さな店が密集。立ち飲み、焼き鳥屋、小料理屋などが並び、仕事帰りの客を迎え入れてきた。派手なネオンや歓楽施設が並ぶ東口とは異なり、西口の酒場街は比較的落ち着いた、日常の酒場としての健全な雰囲気を保っている。


新宿西口の飲食店街においてもうひとつの象徴的な場所が、新宿駅西口を出て右手側、JRの線路沿いに広がる思い出横丁である。現在は海外からの観光客にも知られる飲食街となっているが、その起源は戦後間もない頃に自然発生的に生まれた闇市にある。敗戦直後の混乱期、物資不足のなかで人々は駅周辺に露店を出し、焼き鳥や煮込み、酒などを提供した。やがてそれらの店は簡易な建物へと移り、細い路地に小さな店が密集する独特の飲食街が形成されていった。

思い出横丁の特徴は、その独特の空間構造にある。路地は非常に狭く、そこに小規模な店舗が高密度に連なっている。店内は外から自然と覗き込めるほど開かれており、焼き台の煙や料理の匂い、客の笑い声や会話が路地へと溢れ出す。そのため通りがかった人が店の様子を見てふらりと立ち寄ったり、隣り合わせた客と言葉を交わしたりといった偶発的な交流が生まれやすい。こうした身体感覚に近い距離のコミュニケーションは、整然とした都市型飲食店では生まれにくいものであり、横丁という空間の大きな魅力となっている。


私も思い出横丁で呑むたびに、ちょっとした非日常感を味わうことができると感じている。戦後の闇市時代に建てられたかもしれないバラック建築のなかで呑む酒は、いつもの慣れ親しんだ味とは大きく異なるものだ。戦後の統制経済下において比較的入手しやすかったという内臓肉を焼いた「もつ焼き」は横丁の象徴的な食文化であり、一串ごとに戦後の混乱の最中をたくましく生き抜いた先人たちの思いを味わうことができるようだ。細い路地、古い小さな建物、もつ焼き、煙や匂い、人々の声、さまざまな要素が重なり合って身体感覚に訴えてくる思い出横丁は、令和の東京に残された貴重な文化装置であると言えるだろう。

このように新宿西口は、計画的に整備された高層ビル街と、戦後の記憶を残す酒場文化が共存する独特の都市空間と言える。その文化のなかで、単なる会社員の酒場にとどまらず、作家や芸術家たちが集った特異な場所がある。居酒屋「ぼるが」である。次章では、ぼるがの沿革と文化的背景について見ていく。