居酒屋で焼鳥をオーダーする時、大抵の場合はタレか塩かの二択を迫られる。もちろん、その選択には正解も不正解もないし、まして善も悪も存在しない。あるのはただ、好みと気分だけだ。
ところが一部の界隈では、以下のような考えが根強くはびこっている。「タレを選ぶのは子ども、大人は塩で食べるべき」というものだ。誰が最初に放った言葉なのか、どこに根拠があるのかはわからない。だが私をはじめ、多くの人がこの考えに影響されて来ただろうと想像できる。
実際、私が20代前半のころ、この考えに触れた直後から焼鳥をタレでオーダーするのをやめた。理由はもちろん、子どもと思われたくなかったから。大人ぶりたかったから。でも本心はといえば、どう考えてもタレのほうが好きだった。当時はまだ、酒に合う味よりも、ご飯に合う味の方を好む傾向が強かったからだ。
時を経て、よもや子どもと見なされる年齢でもなくなり、また世間体のようなものにある程度は縛られなくなったあたりから、私の中で「タレは子ども」の呪縛は徐々にその効力を失っていった。呪縛について冷静に俯瞰できるようになると、さまざまな学びがそこにあったことに気づく。
まず「タレばかりを好んで食べるなら子どもの舌と言えるかな」ということ。素材の味をより強く感じるのは塩だから、すべてをタレに浸してしまうのはもったいない気がしてしまう。
それから「塩ばかりオーダーしても味気ない」ということ。タレに比べれば薄味の、塩味ばかりを連続で口にするのは飽きが早いし、いろいろな方向性の味を順ぐりと楽しみたいと思ってしまう。
結果として、焼鳥はタレか塩か、という白黒はっきりつけたがる極端な議論ではなく「部位によって最適な味付けがある」という境地にたどり着いた。つくねやピーマンの肉詰め、レバなどはタレで味わうのが良い。ナンコツや砂肝、ぼんじりなどは塩で味わうのが良い。また正肉、もも、皮などは、タレでも塩でも、その時の気分で決めれば良い。こういうことですべて丸く収まるのではないだろうか。
それにしても、と思う。このような考えに至るまでには、それなりの年月と場数が必要だろう。ハタチそこそこの若造だった私に、そんな事情が理解できるわけもなく。思えば遠くへ来たもんだ、などとぼんやり思いながら、ビールと焼鳥でしっぽりやるもの良いかもしれない。