鶯谷駅って、どうしてこんなにも降りるのがはばかられるんだろう。山手線と京浜東北線、首都圏を代表する路線の停車駅なのに、どうしてこんなにも気が引けるのだろう。ホームからの景観を目にすればその答えは自ずと明らかなのだが、それにしても、そこには私のような小心者にとって、なかなかに高いハードルがそびえ立っている。大勢で連れ立ってワイワイ集まる場所ではないし、SNSでココへ行ったよ!と公言する場所でもない。ひとりでひっそりと、できれば顔も名前も隠して、他人になりすましたりして訪れるのが気分の街なのかもしれない。偏見かもしれないけど。
しかしと言うべきか、だからと言うべきか、そんな特殊な街だからこそ、良質な酒場は連綿と、脈々と育まれていくのだろう。「信濃路」である。改札の目の前に、歴史を感じる佇まい。ワケアリかもしれない誰もを、優しく迎え入れてくれる。
早朝から深夜まで、お酒も食事もいける「信濃路」
JR鶯谷北口改札の目の前、歩いたら10秒かからないかな。そんな抜群のロケーションに信濃路はある。創業は昭和47年というから、かれこれ50年もこの場所で営業を続けてきた老舗といえるお店だ。看板にはさらりと「お食事・呑み処・おかず・定食・そば・うどん」などと書かれているが、冷静に考えると商品の守備範囲が広すぎる。このラインナップを早朝から深夜まで取り揃えているのだから、その実力、その努力は推して知るべしだ。
ところ狭しと貼られたお品書き、唯一無二の世界観へ
店内に歩を進めると、否が応にも目に飛び込んでくるのが、壁一面に張り巡らされた圧巻のお品書きだろう。大げさでなく、壁紙がどんな模様をしているのかわからないくらい、びっしりと埋め尽くされている。酒も、肉も魚も野菜も、そばもうどんもラーメンも、定食も。和食も中華も洋食も。もうなんと言うか、ここに来て食べられないものはないのではないかと錯覚するくらいの品揃えなのだ。あまりに品数が多すぎて、もうお品書きを眺めるだけで一杯やれるレベル。何をオーダーしようか確実に悩むのだが、このままずっと悩み続けても良いのではないかとすら思えてくる。この世界観、好きだなぁ。
酒と食のワンダーランドで、迷子になることを楽しむ。
おつまみには大いに悩むとして、ファーストドリンクは既定路線で行こう、ということで瓶ビール(大・530円)からスタート。キリンラガーがあると、ちょっと安心してしまうのはなぜなんだろう。
さっそくやってきたのはポテトサラダ(300円)。ふわふわタイプのやさしい味わい。飛び上がるほど美味しいわけではないが、お酒のアテとしては偏差値高い仕上がりだ。ソースを少し垂らして食べてみたくなる一品かもしれない。
続いて赤ウインナー揚げ(280円)の登場だ。片端に数回包丁を入れれば、大人気のタコさんウインナーへと変貌するアレである。酒場にもっとも似合うウインナーといえばこれだろう。シャウエッセンじゃない、ジョンソンビルでもない、赤ウインナーの素朴で飾らない佇まいがなんとも愛らしいではないか。
コレ以外のものも今度たまには呑みます!ということでチューハイ(380円)である。信濃路のチューハイは外中セパレートスタイル。このほうが炭酸の持続力が長持ちするのかな。気分的にはそんな風にも思えてくる。
幾千のお品書きを眺めていたら目が合った、いや向こうがこちらを凝視していたように感じた肉じゃが(300円)を追加オーダー。じゃがいもにも、にんじんにもしっかりと味が染みている。まさに酒を呑みながら食べたいタイプの肉じゃがに仕上がっている。頼んでよかった、後悔することのない一品だろう。
ちなみに余談なのだが、信濃路のカウンター席の一部ではなかなか面白い光景を目撃することができる。なんと、カウンターと上部ショーケースの小さな隙間から、店員さんの手がにゅっと出てきてお酒やおつまみが提供されるのである。初めて訪れた時には、驚きと面白さで私の顔面の造作がおかしなことになっていただろうと想像できる。この異世界感、ぜひ味わってみてもらいたい。
素性を明かさず、ただ密やかに自分の酒と向き合う客たち。
私が入店して時には、ほんの数名の先客しかいなかったように記憶しているが、気づいてみると客席は7割がた埋まっているようだ。全員が男性、全員が中年以上。ランチで訪れているのかもしれないワイシャツ姿のふたり組もいるが、それ以外の人の素性は読めそうにない。でもそれで良いのだろう。この場所で人様に名前や生業や生まれを聞くべきでないし、そんな情報を知る必要もない。むしろ人様の、ひとりだけの時間に土足で立ち入るべきではないのだ。ただ淡々と、ただ密やかに、顔も名前も明かさずに自分だけの酒を愉しめば良いのである。ここはそんな街だし、そんな店なのだから。
匿名の客たち、そのすべてを優しく受け入れる名店
なんとなく降りづらい駅の、たぶん名前を隠したい人たちが集まる場所。だからこそ、彼らを優しく包み込む信濃路のような酒場が必要なのだろう。美味い酒と、美味い肴。ちょっと理解し難いほどの豊富なラインナップ。そして、そのすべてがお手頃な価格で供されている。匿名の客たちに守られながら、匿名の客たちとともに歴史を刻んできた名酒場は、これからも同じ場所で、同じように時を重ねていくことだろう。
店名/信濃路 鶯谷店
住所/東京都台東区根岸1-7-4 元三島神社 1F
電話/03-3875-7456
営業時間/[月・日]5:00~23:00 [水・土]5:00~翌2:00 [火]8:00~翌2:00
定休日/年中無休※本記事は筆者訪問日(2021年10月)時点の情報をもとに作成しています。
※時節柄、営業時間やメニュー等の内容に変更が生じる可能性があります。
※充分な感染症対策を実施し、適切なご利用をお願いします。
※飲酒は20歳になってから。お酒は楽しく適量で。