瓶ビールを手酌してはいけないのだろうか 〜あるいは、お酌文化の善悪について〜

ぼんやり想う

昭和の時代に生を受け、平成を働き尽くして令和にたどり着いた私たちオヂサン世代には、ある種の、拭い去ることのできない呪いのようなものがかけられていると思う。それは、

「瓶ビールは人様に注いで差し上げるもの、手酌をしてはならない」

というものだ。昭和の時代から、あるいはそれ以前から連綿と受け継がれてきたこの風習は、未だに私たちの酒場での作法を支配していると言っても過言ではない。果たしてそれが良きものであるのか、悪しきものであるのか、今現在の私の思いの丈を述べていこうと思う。

神道に由来する古来からの「お酌」文化

酒場の作法として、なんとなく、ときには強制されて行なってきたお酌なわけだが、これって一体何なのだろうと思う。相手の素性を知らなければ批判することもままならないので「お酌」という行為について、この際いろいろと調べてみることにした。

すると、お酌の文化は日本古来からの神道に由来するものであるらしいことが分かる。そしてお酌は、単に酒を盃に注ぐだけでなく、相手の幸せを願う行為でもあるのだそう。

神前結婚式で行われる「三三九度」や「親族固めの儀式」では、巫女がそれぞれの杯に酒を注いでくれるし、正月に家族で「お屠蘇」を呑む際、家族の盃にお酌をするのは家長の役目。また戦国時代には殿様が家来の労をねぎらうためにお酌を行っていたともいわれている。

こうして見ると、お酌とはある意味で神聖な行為であり、他者との関係性をより親密なものにするために行われてきたことが想像できる。目下の者が目上の者に対して行うものではなく、また誰かに強制されて行うものなどではもちろんない。

このように本来は相手の幸せを願う行為であるはずのお酌も、時代の変遷や価値観の変化、組織や地域内の人間関係の変化などによってすっかり様変わりし、現在ではパワハラの象徴であるかのように忌み嫌われるものとなってしまった。

かく言う私も最近までは、特に瓶ビールにまつわるお酌の作法に嫌悪感を覚えていた。私にその嫌悪感を植え付けた決定的な出来事があるので次に紹介したいと思う。

上層部へのお酌が強制された社員旅行の大宴会

私が社会に出て間もないころに勤めていた会社は、昭和の悪しき側面を忠実に受け継いだかのような場所だった。知性や理論を持ち合わせず、汗と根性を至上のものとする、社員の誰からも尊敬されない社長が率いていたその会社では年に一回、もれなく大宴会が催される社員旅行が行われていた。

旅費はもちろん会社持ちなので、平社員だった私が偉そうな口を聞くのもどうかと思うのだが、この大宴会というのがとにかく、悪い意味ですごかったのだ。

ステージ付の大宴会場では上座の中心を社長が陣取り、その両脇を社長の腰巾着とも言うべき幹部たちが固める。そして宴会がスタートする直前、私の直属の上司がやってきて「乾杯が終わったら瓶ビールを持って社長たちに注いで回るんだぞ」と釘を刺していく。ほんとに?うそでしょ、と思った矢先、私の目の前に広がったのは、社長と幹部たちの前に瓶ビールを持って連なる社員たちの大行列だった。

「ナンダコレハ!?」

もし私が、社長や幹部たちに好意や尊敬の念を抱いていたのであれば、自らお酌して彼らと親睦をはかりたいと思ったかもしれない。しかし実際は尊敬に値する要素の一切ない社長たち。それも会社の宴会のルールとしてお酌することを強要されている。この抗い難い、理不尽な出来事によって、私は瓶ビールでのお酌に大きな疑念と嫌悪感を抱くようになってしまったのだ。

複数人の飲み会でひとり瓶ビールを呑むことの気まずさ

お酌への疑念や嫌悪感を募らせた私ではあったのだが、瓶ビールが嫌いになったわけではもちろんない。むしろひとりで酒場を巡るようになってからというもの、私の瓶ビール愛はより強いものとなっていった。生ビールよりも炭酸がマイルドだし、なんていうか、瓶ビールにはロマンがあるんだよな、と。そのようにして瓶ビールが呑める酒場であれば、迷いなく瓶ビールを注文している私なのだが、この趣向が災いしてちょっと気まずい思いをしてしまったことがある。

その日は数人の友人と、とある酒場で飲み会だったのだが、まわりが生ビールやレモンサワーなどを注文するなか私はいつものくせで、何も考えずに瓶ビールを注文した。それぞれの飲み物が運ばれてきて乾杯、となる瞬間、向かいに座っていた友人が私に瓶ビールを注いでくれてしまったのだ。しまった、私ひとりが「手酌無用」の瓶ビールを注文し、友人にいらぬ気を使わせてしまったと感じた。きっと友人にしてみればそんなこと微塵も気にしていないのかもしれないが、私はその場の空気をすこし乱してしまったような気がしてなんとも居心地の悪さを感じてしまったものだ。

それ以来、人前で瓶ビールを注文する際には、自分で勝手にやるのでお酌は無用、と通達するようにしている。瓶ビールにまつわる酒場の作法の、なんと融通の効かないことであろうか。

お酌によって生み出される親密な空気感も確かに存在する

これまでお酌や瓶ビールの作法についてネガティブな体験を述べてきたが、実はお酌によって、相手と非常に親密な時間を過ごした経験もある。これは比較的近年のことなのだが、気のおけない友人のひとりと、二人で酒を呑む機会があった。

この日は途中からお互いに日本酒を呑みはじめ、二合徳利におちょこがふたつ、お酒を差しつ差されつしながらゆるゆると話を続けていた。いつもながら特に実りのない、まったくもって他愛のない会話を続けていたのだが、お酒と会話のリズムやペースが相手とシンクロしたかのように、非常に親密で有意義な時間とすることができた。

お酒を相手に注ぐことや、自分のおちょこにお酒が注がれることに一切の嫌悪感はなく、今思えば、冒頭に触れた相手の幸せを願うためにお酌をするという、本来の目的にかなった行為ができていたのだと感じる。これまで過ごしてきた彼との時間を愛しく思い、また今後の彼の人生が良きものであることを願いながら、お酒を交わすことができていたのだろう。願わくば、彼のほうにも同じような感情が芽生えていてくれたら嬉しいのだけど。

こういう時間を楽しむことができるのなら、お酌をすることも決して悪いことではない。むしろ親密な相手と呑むお酒であるなら、積極的にお酌をしていくべきだと思えたほどなのだ。

お酒の時間を良きものにしたいのなら、お酌することをおすすめしたい

私たちオヂサン世代の酒場での作法を支配してきたお酌の文化。それが忌み嫌われる背景には、お酌が持つ本来の意味からいつの間にか乖離し、やがて定着した上下関係や強制によるものがあるのだろう。しかし家族や友人など、気のおけない親密な関係性を築き上げた人たちとのお酒であるならば、お酌によって、相手との関係をより強固なものにしてくれる。お酌が善なのか悪なのか、それは時と場合、相手との関係性によって大きく異なるだろう。悪い側面ばかりを見てすべてを判断するのは、あまりにももったいないことなのかもしれない。私に関して言えば、この記事をまとめながら「お酌ってやっぱり良いものだな」と思わされたのだから。